努力に対して、世の中には二つの考えがある。
「努力したって結果が出なければ無意味」という考えと
「例えどんな結果だろうと、努力には意味がある」という考え。
この二つは、どちらが正しいのだろうか。
答えは「どちらも正しい」だ。
そもそもこれは、前提としている着眼点が違うのだ。
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客観的には、努力に意味なんかない。
客観的に考えれば、努力そのものにはなんの意味もない。
なぜなら、頑張るだけなら、どんなアホだって頑張っているからだ。
他人はあなたの努力になど興味がない。
あなたが頑張った結果、何を生み出したかに興味がある。
つまりどんなに努力しようとも、その結果何も生み出せていないなら、そんなものは無価値なんだ。
少なくとも他人からすれば。
主観的には、どんな結果でも努力には意味がある。
しかし同じ問いが、視点を「主観」に変えると別のものに変わる。
主観で考えた場合は、どんな結果だったろうと、あなたが努力したことは必ず意味がある。
それ自体が失敗だったろうと、その過程で学べることは多くあったはずだ。
その失敗体験をもとに、次の成功を引き寄せられるかもしれない。
だから、どんな結果だったろうと、本気で頑張っているのであれば、それに意味がないなんてことは絶対にありえない。
視点を混同して考えるから、話がややこしくなる。
ようするにこの問題は、視点の違いなのだ。
客観的に考えれば、努力そのものに意味はない。
でも主観的に考えれば、どんな努力にも必ず意味がある。
ところがそういった視点の違いを踏まえず、ひとまとめに 「努力は意味があるか?」と考えようとするから、話がややこしくなるのだ。
モノの価値は、前提条件によって変わる。
例えばペットボトル一本のお茶は、日常生活の中では100円の価値しかない。
飲みかけのまま捨てたところで、さほど損をした気にもならないような、安っぽいものだ。
しかし、あなたが砂漠の中心で遭難中だったらどうだ。
絶対に「飲みかけのまま捨てるようなこと」はしないだろう。
最後の一滴まで、搾り尽くすように飲むだろう。
このように、ものの価値は前提条件によって変わる。
だから努力そのものの価値も、何を軸に考えるかで変わるのだ。
努力に意味はないと突きつけられた小学生時代。
少し話は変わる。
僕は小さい頃、通信簿でずっと五段階評価で2ばっかりとってるこだった。
でもある日、初めて4をとれた。
そのことが嬉しかった。
すごくすごく嬉しかった。
だから家に帰ってから、お父さんにそれを報告した。
だけどお父さんはこう言った。
「確かにこれは4とれてるけど、他のが相変わらず2ばっかりじゃん」
そう言われたとき、僕はすごく悲しかった。
自分の頑張りが認めてもらえなかった。
自分の中で達成したことが、認めてもらえなかった。
共感してもらえなかった。
悲しかった。
すごくすごく悲しかった。
あれから20年の月日がたった。
あの頃はただただショックなだけだったこのエピソードを、今ではもう少し冷静に分析することができる。
あの当時の僕の努力は、確かに客観的には無価値だったんだろう。
確かに初めて4をとれたといえど、全体では3だったものが2に下がっていることも多く、総合的にはむしろ下がっている。
でも主観的には、とても大きな価値があったのだ。
これまでは一度も超えられなかった壁を、あのときの私は、初めて超えることができたのだ。
私の努力は、無価値だったけど、価値があった。
価値があったけど、無価値だった。
ならば、それでいいじゃないか。
次こそは、客観的な価値も獲得できるように、さらに頑張ればいい。
それだけだ。
こんなふうに、「客観的な価値」と「主観的な価値」を切り分けて考えるようにすると、努力に対して冷静に評価できるようになる。
このことが理解できれば…
- どれだけ他人に評価されないからといって、自分の中の苦労や辛さまで否定しなくていいことに気付くはずだ。どんなに評価されなくても、あなたは頑張ったのだから。
- どれだけ自分が辛かったからといって、そのことを理解してくれと他人に求めるのは間違っていると気付くはずだ。他人はあなたのママではないのだから。
努力に対する「他人の価値」と「自分の価値」を分離する。
これが、適切な努力を行うために必要な、スタートラインだと思う。